4年前まで、この小さな国は王国と呼ばれていた。
平和で穏やかなこの国はあの日まで、この平穏が崩れることなど少しも考えていなかった。
城の最上階、自室で山のように積まれた教科書をめくりながら、夕焼けに染まらない黒い雲を見て、今夜は大雪になるだろうなとよそ見をしていたくらいだった。
「ユエステラ様!!」
いつもより急ぎ気味でやってきたメイドの様子にも、特別危機感を覚えることもなく。
「お逃げください! 城に侵入者がっ…………」
メイドの声が途中で途切れ、糸の切れたマリオネットのように倒れ込んで。
「おば様……ッ!?」
「……急所は外してるから大丈夫だ」
倒れたメイドの後ろに人影がいて。
「誰!?」
部屋に入ってきたその人影を見るまで。
「……貴方、は……」
なんとなく、平穏はこれからも続いていくと、信じていた。
ーーー
目を見開いて固まる少女の視界に映ったのは、野蛮な大男ではなく、齢十五程の少年だった。成長期特有のすらりとした細身の身体に、上流階級の衣服。麦畑のようになびく黄金色の髪は、整った顔を半分覆うように流されている。そして眉目秀麗な風貌には似合わない無骨なサーベルが、その切っ先をこちらに向けていた。
「……久しぶりだな」
冷たい金の隻眼は、少女に語りかけてゆっくりと近付いてくる。不安を掻き立てる靴音と、ゆらめく刃。逃げるように少女は後ずさりするが、そんなに広くはない部屋の中、背中はすぐ窓に張り付いた。
「侵入者だ! 早く、城から逃げろ!!」
「誰か、姫を! さっき姫のお部屋の方に侵入者が!!」
城下から繰り返し聞こえる避難指示を聞きながら、窓に背を向けて侵入者と対峙する。積もった雪の冷気が、じわりと背中に忍び寄る。
「あんたを奪いに来たぜ、ユウ」
「……私はユエステラです。その武器を下ろしてください。……ハーツさん」
震える声で答えると、ハーツと呼ばれた少年は素直にサーベルを下ろす。鞘に収めるのを見届けてから、止めていた息を吐いて、少女は口を開いた。
「……何が目的ですか。……こんなことしても、地位やお金は貰えませんよ」
「そんなもん、ハナからいらねぇよ。俺はあんたを奪いに来た。それだけだ」
ハーツは飄々とした態度で問いに答える。砕けた言葉遣いだが、隙は見せない。
「……それが、貴方の本当の姿だったんですか」
「野蛮な海賊上がりなんでね。そういうあんたは、いつまで姫様やってるんだ?」
「私は、別に……」
「だぁから、それが姫様やってるって言ってんだよ」
ハーツは呆れたように答える。
そうしている間に誰か助けに来ないかと思ったが、ここは城の最上階、しかも1番奥の部屋だ。これ以上待っても望みは薄いらしい。
だがしかし、この部屋の出口はハーツの背面にある。そして今はその反対側の窓に張り付いている状況。……脱出は絶望的だ。
もう、こうするしかない。
少女は後ろ手で窓の鍵に手をかけると、手早く外して背中で押し開ける。彫刻が細かく施された重そうな見た目の窓は、なめらかに両側へ開く。雪混じりの風が扉の方へ抜けていき、隻眼の少年の前髪を揺らす。隠れていた左目は閉じられたままだ。
そのまま身を翻して窓枠に右手をかけると、ハーツは焦ったように少女の左手を掴む。それを振りほどいて身を乗り出すが、今度は髪の毛を掴まれて引っ張られた。丁度、リボンで結んでハーフアップになっている、長い毛束。
「いっ……!!」
「手荒なことはしたくねぇんだ。頼むよ」
うめくような少女の声に、ハーツは苦しそうな顔をする。
なぜそんなことを言うのか、少女には理解出来なかった。そもそもなぜこんなことをするのか。何が目的なのか。どうしたいのか。何も分からなかった。分からないまま、涙だけが溢れて零れる。その涙が恐怖なのか怒りなのか悲しみなのか、それもまた分からなかった。
あくまでこの侵入者は、少女を無理やり連れ去ろうとはしない。髪を掴む力は弱く、窓から身を乗り出した少女を咄嗟に止めた、ただそれだけ。強盗紛いのことをして、いざ連れ出すには少女の同意を求めている。
……その優しさが、理解できない。
「私は……貴方にはついて行きません!」
少女は叫び、おもむろにドレスの裾をまくる。
「な……っ!?」
たじろぐ少年をよそに太ももへ手を突っ込み短剣を取り出す。こういう時の護身用に、忍ばせていた。
……まさかこの人に使うとは思っていなかったけれど。
少女はそのまま掴まれた髪の毛の根元に刃を当てた。絹のように細い髪の毛は、小さく音を立てて次々と切り離されていく。
「ば……ッ」
動揺の声を漏らすと同時に、手にあった抵抗がすっと無くなり、ハーツはバランスを崩して後ろに倒れ込んだ。彼の手にはリボンで束ねられた髪束だけが残る。
ハーツの目の前で髪の毛を翻す少女は、窓から身を乗り出し、少年の方を一瞥する。
そして何も言わず、そのまま飛び降りた。
「おい嘘だろ……ッ!?」
遅れて窓に手をかけて階下を見下ろすと、壁面の突起したレンガを伝って軽やかに駆け下りて行く少女の姿が見えた。
「……クソッ」
「その様子だと、逃げられたみたいだね」
入り口から鈴のような声。暗がりに溶け込むように佇むその影は、入り口で倒れているメイドを拘束しながらこちらを見ていた。
「……すまない。しくじった」
「別に。こっちの目的は達成出来たから」
手早く手首を縛り上げると、そのまま入り口に横たわらせる。
「仕方ない。作戦はBに変更だ」
「……本当にいいんだね、それで」
少年は髪束をコートのポケットに無造作に突っ込むと、横たわらせたメイドを担ぎあげる。
「……元から決めていたことだからな」
半ば言い聞かせるような言葉を残して、少年は部屋を後にした。
ーーー
少女は森を駆ける。追いかけてくるかもしれない恐怖と戦いながら無我夢中で走り、気付けば森の奥深くまで来ていた。木々の中にぽつりと佇む小屋を見つけ、ひとまず身を休める。木箱に腰掛け空を仰ぐと、すっかり暗くなった空から雪が音もなく舞い降りてきていた。今夜は特に冷えそうだ。
「……これからどうしよう……」
少女はか細い声を零し、身を温めるように縮こまる。部屋から持ってきたのは、短剣と、羽織っていたケープのみ。あとは着の身着のままだ。白い息が宙に溶ける。これから夜にかけて、どんどん冷え込むだろう。
と、空から鳥の羽ばたく音が近付いてきた。鳥はもう巣で羽を休める時間のはずだが、どうしたのだろう。不思議に思い空を見上げると、ほのかに雪の光を受けて翠の羽を輝かせる鳥がこちらに向かっていた。静かに旋回すると、そのまま少女の膝の上へ降り立つ。
「ロイ!」
その鳥は、いつも放し飼いにしていたペットのロイだった。足には何かを括り付けられている。
「どうしたの? それ」
少女はそれを取り外して広げる。そこには簡潔な言葉が並んでいた。
『王を捕らえた。この国は帝国となる。お前はもう、王女じゃない』
「……っ!」
この筆跡に、少女は見覚えがあった。
「……ハーツ……さん……」
少女を連れ去ろうと、城に攻め込んだあの少年。目的は少女自身ではなかったのか? 逃げられて、終わりじゃなかったのだとしたら、それは……
「……アタシのせいだ……」
アタシがあの時逃げたから、代わりに国ごと奪われたんだ。
足元がふわりと浮いたような感覚。一気に肝が冷えた、そんな気がした。どうにもならない不安から逃れるように、鳥を抱きしめる。仄かな温もりが、じわりと広がった。
幾分か心細さが和らぐと、今度は眠気が頭にもたれかかってくる。
私が……責任取らなきゃ……
ぼんやりそんなことを考えながら、少女は瞼を閉じた。
……。
…………。
「……ん……」
目を覚ますと、天上に夕焼け空が見えた。また、4年前の夢を見ていたらしい。
「……いつ見てもしんどい夢だね、ホント」
少女はぽつりと零すと、ハンモックから降りて背伸びをする。すっかり寝床として定着したこの赤いレンガの小屋は、夕陽を浴びてさらに赤く輝いていた。もう、夜が近い。
少女は手早く傍の木箱にまとめてある服に着替える。タンクトップに短いジャケット、ショーパンとスカートを合わせて、足元はニーハイとブーツ。あの日の後、急いで街で揃えたこの格好。勇気をくれる、特別なものだ。
「……さぁ、行こうか」
仕上げに赤いゴーグルを目に当てれば、そこにはもう弱虫な少女も、あの日の王女もいない。
アタシは奪われた王国を取り戻す、勇敢な義賊。
……怪盗Aだ。