「怪盗Aだ!怪盗Aが出たぞ!!」
すべての国民が寝静まった街に、くぐもった怒声が響く。複数人の足音が、ガシャガシャと音を立てているのが聞こえた。
彼らの視線の先では、小柄な影が軽やかな足取りで城下町の中を走り回っている。月に向かう形で走っているので、姿ははっきりと視認出来ない。大地に伸びる影が月に向かう影と繋がる度に、ブーツに絡んでいる鎖が自分の居場所を知らせるかのようにチャリチャリと鳴った。
「くそっ、ちょこまかと小賢しい…回り込んで捕まえろ!無理なら殺せッ!!」
甲冑軍団の後方を走っていた一際恰幅のいい男が立ち止まり、息を切らしつつ物騒なことを前方の軍団へ指示した。どうやらリーダーらしい。前方の部下たちは雄叫びと共に持っていた剣を掲げ、左右に分かれる。
そんな雄叫びを後方に聞き、小柄な影は後ろをちらりと一瞥した。月夜に映える赤いゴーグルが、いたずらっぽく月光を反射する。
甲冑たちは殆ど回り込みに回ったらしく、追手は半分ほどになっていた。それだけ確認すると怪盗はまた進行方向へ向き直る。
その瞬間、前方の角から銀に光る人影が飛び出してきた。
「怪盗の首、貰ったァーーッ!!」
その人影は大きく振りかぶっていた剣を、雄叫びと共に振り下ろす。月光を反射した銀色の刃が、向かって左上から斜めに弧を描く。
怪盗は速度を緩めること無く重心を左に移し、水を掻き小舟を漕ぐ櫂のようなしなやかな動きでそれを避けた。怪盗の右側を銀の光が擦れるように通過する。
「チッ、外したか!」
「次は俺が!」
「いや、オレだ!!」
怪盗を囲い込んだ甲冑たちは我先にと甲冑を軋ませ合い、刃を掲げ、中央の影を目指し迫ってくる。
右上から、左上から、はたまた水平方向から、統率が取れていないにも関わらず不規則で絶妙なリズムを刻む刃を、これもまた怪盗は涼しい顔でひらりひらりと躱した。
「何をしてるんだ。役立たずどもが……。どけッ!俺が殺る!!」
しばらく攻防戦が続いたところに、軍団の後方から苛立たしげな声が飛んできた。部下の攻撃が1度も当たらなかったことに怒りを覚えたらしい。リーダーの男が荒々しく味方を押しやり、その中央、怪盗の目の前に現れる。
「今日こそは逃がさんからな?この反逆者め」
表情の見えない赤ゴーグルを睨みながら、男は他の兵より豪華な装飾の鞘からおもむろに剣を取り出し、その切っ先を怪盗へ向けた。ジャキッと重い金属音が鳴る。
怖気づいたのか1歩も動かない怪盗を見て勝利を確信し、剣をいざ振りかぶらんと腕に力を込めた、その瞬間。
怪盗は、猛スピードで男との間合いを詰めてきた。
「……なッ…!?」
男は予想外の出来事に怯む。怪盗はその頭を思いっきり踏みつけ、そのまま飛び越えた。甲冑に鎖が当たり、チャリンと軽やかな音を鳴らす。空中で一回転までして見せ、怪盗は音もなく建物の屋根へと降り立った。
屋根に登られてしまっては、重い鎧を纏った甲冑軍団は追うことが出来ない。初めからそうしなかったのは、男たちの体力を奪うためか、ただ彼らをからかうためか。
小柄な影は足下でうろたえる男たちを見やり、口元に上弦の月を浮かべた、ようにみえた。そしてひらひらと手を振り、くるりと踵を返して走り去る。首から伸びる長い尻尾のような影が、遅れて弧を描いた。
「こんなことをして、ハーツ様が黙っていると思うなよ!!」
呆然としている甲冑たちの中で1人、怪盗を睨み続けたリーダーの男は叫んだ。だが、遠ざかる背中に怒鳴ったところで負け犬の遠吠え。男はぶつける先のない怒りでわなわなと立ち尽くすが、その怒りをどうにか鎮め、城へ戻るべく来た道を振り返る。
と、その鼻先を、何かがヒラリと掠めて落ちた。疎ましげに鎧を鳴らして拾い上げたそれは、一枚のトランプカードだった。真ん中に1つある赤いハートマークの横に、小さく文字が書かれている。
『怪盗A、今宵も参上!』
男はその短い走り書きを読み終わるや否や、掌でぐしゃっと握りつぶした。
「何が怪盗Aだッ!……帝国の反逆者め!!」
男の怒号は、ぼんやりと薄明るい空に轟いた。
月はうたた寝をするように、輝きを失ってくる。
追手の気配が無くなったのを感じ、怪盗は街のはずれで足を止めた。振り返れば、はるか上方に城が見える。随分遠くまで走ったようだ。
周りの家々も先程のレンガ造りの街並みよりも質素な造りで、前方にはもう海が見えていた。
静まり返ったこの家々には、帝国の王の強制収容から逃れた人々がひっそりと暮らしている。
「さて、急がなきゃね」
誰に聞かせるでもない呟きをこぼすと、怪盗は手近な民家の窓に近付き、手をかける。音を立てずに開けたそこから、部屋の中を覗き込んだ。木製のテーブルと、向かい合わせに2脚の椅子。奥に見えるキッチンも含めて、ここ最近使われた形跡がない。が、怪盗のいる窓際にある丸テーブルには人の存在を知らせる1通の手紙が置いてあった。宛名は、怪盗A。
──奪われたものを奪い返す、正義の反逆者、怪盗A。
窓際に依頼の手紙を置いておくと、怪盗の元へ翠の鳥が運んでくれるんだって。
怪盗はそんな噂話を思い出しながらそれを手に取り、胸のポケットに仕舞った。元々は怪盗の存在を周知するための都市伝説のようなものだったが、4年も経つ間にすっかり定着してしまったらしい。実際最初の1年は混乱する国民の争いを鎮めるために、色々と裏で手を打ったものだ。
「……ごめんね、今日もこれだけで」
怪盗はそう呟きながら帝国から奪ったパンを取り出し、ハートのAが描かれたトランプカードを添えて優しくそっと置いた。
この国は元々山だったこともあり、耕作や加工品の文化がほとんど無い。その分、海向こうの国との交易で栄えていて、国の貴族が買い占めても余る程の資源が溢れていた。
しかし4年前、王国が攻め落とされ主権が国王から帝国の新たな王に移った途端、今まで貿易をしてきた船は王への不信感からか1隻も来なくなってしまった。
残っていた資源は貴族が買い占めるより早く帝国城にかき集められ、国を運営するべく人民がさらわれ、街にはもう殆ど何も残っていない。自給自足でまかなわれる僅かな食糧で、国民はどうにか生活をしている。
だが帝国は4年経っても食糧を枯らすことはなく、毎日午後には茶菓子と共に紅茶を飲む余裕を残していた。
本来なら困窮する国民に分け与えるのが王の役目であるというのに、今の王はそれをしない。国民の怒りを代弁するべくこうして毎晩食糧を取り返しているのが怪盗Aだ。
奪われたものを奪い返す正義の反逆者。この名前はここから来ている。
怪盗はしばらく他の家々を回りながら、窓際にハートのAのトランプカードとパンを置いていく。こちらの活動報告と、家々の生存確認みたいなものだ。
と、最後の家の窓にパンを置いたところで、その家の扉がギイ、と音を立てた。いつもなら皆寝静まった夜に終わらせておくのだが、今日は城で道草を食ったせいか、夜明け前までかかっていた。にしても早起きすぎないかと思いながら、怪盗は物陰に隠れようとする。
が、その扉から出てきた人物を見ると、ほっと息を吐いた。
「おば様! 良かったぁ……まだ生きてたんだ!」
街中に少女の明るい声が響き渡る。
思わず出た大声を慌てて塞ぐ怪盗を見て、その影……おば様と呼ばれた女性は静かに笑った。
「ふふ、おはよう、怪盗さん。継承式の後にみっちり作法を叩き込まれた割には、全然身についていないのね」
「まあお陰様で。そもそも生粋のおてんば娘を今更淑女に仕上げることがまず不可能だったんだよ」
怪盗も照れくさそうにしながら冗談交じりに笑い返す。
「そういえば、フェルは元気にしてる?」
「うん。相変わらず、皆が困るくらい元気だって」
そう、ならよかった。と、女性は微笑んだ。
「フェルたちが元気に過ごせているのも、私たちがちゃんと生きていられるのも、おてんば娘さんのおかげね」
肩ほどまである薄い茶色の髪を耳にかけ直しながら女性がそう口にすると、怪盗はふっと表情を曇らせた。
「……だけど、全然。4年も経ったのに、まだ何も変わってないよ」
怪盗は目を伏せ、そよ風に溶けてしまいそうな程弱々しい声をこぼした。硝子のレンズが月の光を反射し、表情が読み取れなくなる。
「ごめんね。アタシがもっと強ければ、すぐにでもショケイジョウの子たちを……皆を救い出せるのに」
怪盗は更に落ち込んだ声をこぼし、何かに耐えるように唇を噛み締めた。
空からは刻一刻と星が消えていく。
女性は仕方がないなと言わんばかりに肩をすくめため息をつくと、裾の長い森色のスカートを翻しながら1歩近づき、
バシッ
「いっ! ……ったぁ……」
怪盗の背中を左手で勢いよく叩いた。
「大胆不敵の怪盗Aが弱音吐いてどうするの! 何も出来ない私たちに代わって、毎日こうやって帝国に抗ってる貴女は十分凄いことをしてるのよ」
背中をさすりながら、怪盗は顔を上げた。
「帝国のやっていることには皆が怒っている。でも誰も動かない。……動く勇気がない。その勇気を持っている貴女は、……本当に強いんですよ。もっと自信持ってください」
女性は子どもをあやすように怪盗の両手を握る。眉尻を下げながら、怪盗はそれを受け止めた。
「ほら、もう夜が明けますよ。怪盗は夜明けと共に眠るんでしょう?」
「……うん、そうだね。ありがと」
怪盗は小さく笑みをこぼしながらそれだけ言うと、女性から1歩離れ、挨拶代わりにその場で回ってから走り出した。尻尾のように長い髪の毛が鎖の音に遅れて付いていく。
チャリチャリという音はだんだん小さくなり、そして何も聞こえなくなった。
「……どうかご無事で。ユエステラ様」
怪盗の背中に向けて放たれた小さな声は、陽に溶かされる月の光に混ざって消えた。
帝国城、王の間。
かつて王国の王が鎮座していたその座に居座る1人の男の元に、伝令役の兵士が駆け寄る。
「……申し訳ございません、ハーツ様。またも取り逃してしまいました」
悔しさを噛み潰すように震える兵士を一瞥し、帝国の王は口を開く。
「構わねぇさ。怪盗は適当に泳がせておけばいい」
街で正義の反逆者と持ち上げられている怪盗は、大袈裟な呼び名の割に、やっていることはコソドロ同然だった。奪っていくのは城の備蓄の食糧ばかりで、王の首などは狙いに来ない。彼にとって、取るに足らない脅威だ。無論、そのまま放っておくのも面倒なのでこうして人員をいくらか割いてはいるが、帝国で今脅威となっているのはもっとどう猛で、厄介な腐れ縁。
「それより、港町の様子はどうだった」
「はっ、本日も5名の海賊と交戦。うち3名を海に退けたものの、2名を討ち損じ、そのまま森へ逃げた模様です」
「森か……」
帝国の王は顎に指を添えて考え込む。この国はやたらと賊が多い。海賊もそのひとつで、こちらは王の首を狙っているので怪盗と比べたら断然こちらを優先して片付けたいものである。だが海上を縄張りにする海賊の、その逃げた先が森というのは妙だ。
そもそも帝国の周りを囲む森は、ここの土地に昔から住む者でさえ無闇に立ち入らない。王国の頃から自治区域でなかったからなのだが。
「そういうのは地の利があるやつに行かせた方がいいな」
その言葉と共に、すっと、座の影からくすんだ緑のマントを被った人影が出てきた。
「森へ逃げた海賊2名の撃退または捕獲。生死は問わねぇ。頼んだぞ、ユイ」
「……了解」
突然出てきたその人影は、短く返事をして頷くと、奥の窓からひらりと飛び降りた。その光景を目の当たりにした兵士は、ただ口をパクパクとさせることしか出来ない。
「お前も、もう下がっていい。お疲れさん」
帝国の王も、おもむろに立ち上がると後ろの自室へと向かう。
「ハ、ハーツ様、今のは……」
「ん? ああ、あれか? ……王国嫌いな、森の守護者さ」
不思議な言い回しに首を傾げる兵士をよそに、帝国の王は王の間を去ろうとする。
「失礼します!!」
今度は城内の見回り兵。王は少し苛立たしげにそちらを見やった。
「どうした?」
「地下の見取り図の保管場所をご存知ないでしょうか?自分いつもは外の見回り担当なので、地下の道にまだ不安がありまして」
今日は海賊と怪盗のためにほとんどの兵が出払っている。そういうことなら仕方ないだろう。
「それはご苦労なこった。ついてこい」
王は兵に向き直り、資料庫の方へ向かった。
帝国の夜は、まだ長い。
女性と別れた怪盗は、今にも消えそうな星空を木々の隙間から見ながら森を駆けていた。躓いたらそのまま倒れ込みそうな、おぼつかない足取りで、木々の隙間を駆け抜ける。
「……もう少しだけ、あと少しだけだから……頑張って。エース」
不規則な呼吸を抑えるように歯を食い縛り、怪盗はそう言い聞かせる。
森のかなり深いところまで進んでいくと、開けたところに出た。ぽっかりと空いた空が、その下に佇むレンガ造りの小屋に光を当てる。ようやく寝床までたどり着けたようだ。
「……は~!疲れた!!」
怪盗は体中の空気を吐き出すように叫び、ハンモックへ倒れ込む。そして目に掛けていたゴーグルを額に掛け直した。つり気味の丸く大きな緑の瞳が空を見上げる。 小さく震える口からもれる息は浅く不規則で、空を映す緑の光は涙で潤んでいる。その脳裏には、先程の剣の切っ先と、兵の怒声が浮かんでいた。
──帝国の反逆者め!
「……反逆者はどっちだっての」
こみ上げるものを喉の奥へ押し込み、代わりに少女は小さく悪態をつく。
ふと、上空から微かに羽ばたきが聞こえてきた。音のした方向を見上げると、程なくして翠色の鳥が姿を現す。怪盗の髪のように長い尾羽をひらめかせ、朝焼けで目が深い海のように光る。
そして少女の腕に飛び込むように着地した。
少女もそのまま鳥を抱きしめる。
「割ともう近くにいたんだ。ねぇロイ、聞いて? 今日は兵に囲まれたところから無傷で脱出したんだ。すごいでしょ」
ロイと呼ばれたその鳥は、きょとんとした顔で少女を見つめた。
「それでねぇ、今のリーダーと一騎打ちみたいな感じになった時にね、こう、ジャキッて剣を向けられたんだ」
右腕を上に掲げ軽く振り下ろすと、脳裏の切っ先は4年前のサーベルと重なった。少女は無意識に息を詰め、左腕に力を込める。鳥がクルルともがき鳴く。
「あぁごめんごめん、ぎゅってしちゃった」
右手も鳥に添えて撫でるように謝ると、そのまま顔を羽根の中にうずもらせた。
「……大丈夫。今日もエースは頑張ったよ」
まどろむような暖かさに、先程の情景は溶けて消える。しばらくその暖かさに身を預け、ふと思い出したように少女はその顔を上げた。
「あ、そういえば、リュウ君からお手紙は貰えたの?」
少女がそう言うと、鳥は窮屈そうに片脚を上げて、くくりつけられた紙を見せる。
それを脚から外すと、腕の中に鳥を収めたまま外したそれを広げた。引きちぎったように破れている紙いっぱいに、文字を習い始めたばかりの子供のような拙い字が詰まっている。
暫くそれを食い入るように眺めると、少女は安堵のため息をもらし、手紙を最初より綺麗に折りたたんだ。そして木箱の割れた隙間から、様々な種類の紙切れを寄せ集めて束にしたような帳面を取り出し、1枚抜き取ってそれに手早く返事を書く。走り書きではあるが、読みやすい文字だ。
「それじゃこれ、よろしくね」
書き終わったそれを来た時と同じように鳥の足にくくりつける。
最後にもう1度抱きしめると、鳥は軽やかにジャンプして少女の腕に飛び乗ると、ピュイッと一声鳴いて、暁の空へ舞い上がった。
鳥の姿が見えなくなると、少女はハンモックに再び身を沈める。そして懐から手紙とは別の紙を取り出し、朝焼けの空にかざした。カモフラージュのパンに紛れて手に入れた、今日の収穫品だ。
「……コソドロ見くびってたら、痛い目見るんだからね」
懐に仕舞いながら小さくぼやく。4年間もの間正体を隠して怪盗をやっていたのは、単に富の再分配をするためだけではない。
──奪われたものを奪い返す、正義の反逆者。
それは義勇心の象徴だと言う人もいるけれど、これはあの日逃げた"ユウ"が招いた結果で、責任を取るのは至極当然で。
正義も勇気も、義賊を演じることで保っているだけの借り物だ。
それでも。
「この国は必ず……奪い返すから……」
少女は誰かに誓うように呟くと、そのまま静かに瞼を閉じる。
夜明けの鐘が、澄んだ朝焼けに鳴り響いた。