静寂が頬を優しく撫でる。日はいつしか海に沈み、ぼんやりと空を赤く染めていた。
「……くしゅっ」
自身のくしゃみで目を覚ました少女は、1つ伸びをしてハンモックから降りる。森の中は既に薄暗く、肌寒い。両腕を抱くようにして体を温めようとしたところ、そばで羽を休めていた翠色の鳥が、温もりを分けるようにすっぽりと腕の中へ収まった。ふわりと、陽だまりの香り。頭を擦り寄せるたびにカサカサと音が鳴るのは、足元に結ばれている紙のせいらしい。
「あれ?今日は返事早いね」
手際よく紙を取り外し、広げる。そこにはいつにも増して書きなぐったような字体の並びがあった。さすがに暗がりでは読みにくい。
「……えーと、『帝国……王、本日発つ。しばらく、外交を回る……模様。城内、手薄』……って、ウソ!?」
思わず大声を上げる。というのも、建国してから、あの王は1度も他国と交流したことが無い。他国は今の王を不審がり、王国のころまでの交流は無に返されている。そんな今日の世界情勢における今回の外交は、おそらく……
「……完全にここを帝国として周りに宣言していくつもりだ……」
これは、悠長に手紙の返事なんて書いてる場合じゃない。急いで城へ向かわねば。
……と、ゴーグルを額に着けたところで、茂みの方が不自然にうごめく気配を感じた。そちらに意識を向けつつ、気付かれないよう、手元は手際よく荷物をまとめる。
気配はだんだんと近寄ってきて、崩れたレンガの壁の向こう側まで迫ってきた。木々の香りに紛れた潮の香りが鼻につく。
「……隠れてないで出てきたらどう?海賊さん」
額のゴーグルを目元に装着し、怪盗はそちらの方へ向き直った。
「……あ~あ、バレてたか。さすが怪盗A」
軽い口調でそういいながら人影が姿を現した。細身の男と、大柄な男。2人とも、腰にはサーベルが下げられている。
「なんの用?これから用事があるんだけど」
怪盗は相手を刺激しないようにしつつ、足をじりじりと逃げの体勢へ構える。
「そんなに怯えなくても大丈夫さ、怪盗A。……いや、ユエステラ王女サマ?」
「な……っ!」
一瞬の隙をついて、細身の方が一気に駆け寄ってきた。サーベルを勢いよく抜き、そのまま大きく振るう。
咄嗟に避けるが、切っ先は怪盗の頬を掠めていった。
「いっ……」
悲鳴をどうにか押しとどめ、海賊の方を睨みつける。
「おいおい、大事な姫サマに傷つけるなよ?」
「分かってるって。ちょっと間合い読み違えただけだ」
海賊の方は至って冷静で、軽口を叩く余裕すらある。今度は後ろの大柄な男が武器を構えた。この狭い空間で2対1はまずい。
「……誰かと勘違いしてるんじゃない?ここに姫なんて……いないよ!」
怪盗は力強く叫び、傍らにあった木箱を投げつける。雨風に打たれ脆くなっていたそれは海賊たちに当たると簡単にバラバラと崩れた。
「はんっ、そんな目くらましが俺らに効くとでもわああああ!!??!」
木片を払いのけて体勢を立て直した大柄な男の情けない悲鳴とともに、今度は網が覆い被さる。いつもの寝床のハンモックだ。丈夫な紐で編まれているので、もがけばもがくほど身体中に絡みつく。大柄な男が盛大に暴れるので、細身の男も巻き添えを食らっていた。文字通り、一網打尽。
「くそっ、ほどけねぇ!!」
「お前馬鹿だろっ……このっ、……~~っ暴れんな!!!」
いまのうち。
怪盗はまとめた荷物を掴み、天井の開けたところへ飛び移った。
「あっコラ!!逃げんのか!?」
大柄な男が叫ぶ。第一印象で脳筋ぽいと思っていたけれど、こういうところは目ざといようだ。
「……この時間のオオカミは腹ぺこだから気を付けてね?」
決め台詞としてはこんなものだろうか。
最後に不敵に微笑んでおいて、怪盗は隠れ家を後にした。場所が割れてしまってはもう戻れない。次の場所に移さねば……
「……いや、今日で全部、終わらせよう」
怪盗はそう呟くと、山頂へ向かって駆け出した。
目指すは、帝国城。
ーーーー
「……クッソ……おちょくりやがって……」
夜の更けた森の中で、ようやく解放された大柄の男がぼやく。
「元はと言えばお前が暴れたから逃がしたんだぞ。お頭のゲンコツはお前だけ貰えよ」
「ハァ!!??お前ふざっけんな!!」
細身の男は大男の拳をひらりと避ける。
さて、慣れぬ夜の森で取り残されたが、どうしたものか。
怪盗の住処には何も残されておらず、あるのは崩れかけのレンガだけ。こんなにかかるとは思っていなかったので明かりも持っておらず、ほとんど何も見えない状態だった。とりあえず坂道に沿って歩いていくしかないか……。
山すそと思われる方角へ向いたその時。
「……見つけた」
どこからか、低い声がした。
「誰だ!?」
声の主を探して辺りを見回すが、隣にいる相方の他にそれらしい人影は見えない。
ガサガサッッ!!
激しく木が揺れる。
警戒しつつ背中を合わせたところへ、真上から、それは降ってきた。
「うわあああ!!!?」
予想外の登場に、二人とも派手に転んでしまった。うつ伏せになった細身の男の上に大柄な男が仰向けで倒れ込み、そしてその上に、声の主がのしかかる。
「どうやって怪盗のアジトを見つけた?答えろ」
大柄な男の喉元へ、短剣と思われる刃物が突きつけられた。
「くっ……誰だ……っ……テメェ……!」
「2度も言わせるな。答えろ」
ぐっ、と力がこもる気配を感じ、大柄な男は黙り込んでしまう。代わりに一番下で潰されかけている細身の男が答える。
「どうもこうも、街の奴らがベラベラ喋ったんだよ。ハーツの天敵のアジトがここら辺にあるってな!」
「……じゃあ何故、怪盗のアジトを襲った?」
声の主は先ほどと同じ調子で質問を投げかける。冷静になって聴いてみると、その声はどうやら女のものらしい。
「そりゃあ……あいつを捕まえて人質にでもすりゃ、ハーツから金を巻き上げられるだろ?」
少し考えてから、細身の男はそう答えた。
「怪盗はむしろ帝国の敵だ。人質にされたところでこちらになんの不利益もない。……本当の目的はなんだ」
こいつ……思ったより頭がキレるな……。
なんとも厄介なやつに絡まれてしまった。
しかし真の目的を、得体の知れないやつに話すわけにはいかない。
「それならそっちも名乗ったらどうだ?こちとら全部話す義理はねぇぞ」
依然として背中にのしかかる大男越しにそう言うと、女と思われるその声は答える。
「……それはこの状況をしっかり見てから言いな」
その言葉と共に声は離れ、背中の男がごろんと転がった。どうやら声の主が立ち退いた反動でバランスを崩したようだ。細身の男はようやく充分に膨らむようになった肺に、一旦空気をこれでもかと詰め込む。
それを吐き出してから、うずくまったままの大柄な男を引き上げようと振り向いた。
「!?」
そこに転がっていたのは、喉元から血を大量に流している大男だった。声が出ていないところを見ると、喉笛を斬られたらしい。まさか、問答を始めたあの時既に……!?
「……これだけ血が流れていたら、すぐにオオカミが嗅ぎつけるだろうね」
細身の男の前にいつの間にか立っていた声の主の言葉に、背筋が凍る。フードを深く被ったその声は、じりじりと男と間合いを詰めてくる。男は後ずさるが、すぐに背中が木に当たり、行き場を失う。遠くから、オオカミの遠吠えが聞こえた気がした。
迫り来る恐怖に身動きが出来ない細身の男の喉元に、短剣があてがわれる。血なまぐさい香りと少し湿った刃が、首筋を伝う。
「答えろ。怪盗を襲った本当の目的は?」
フードの中で光る碧い瞳は、冷ややかだった。
ーーーー
「……おう、終わったか?」
帝国城、王の間。外套の襟元を正しながら、帝国の王は窓に現れた影の方を向く。
影は窓から王の間に降り立つと、大きく息を吐き、被っていたフードを取り払った。その顔を見て、帝国の王はにやりと笑う。
「その様子じゃ、あいつらも生きてないだろうな」
「……報告。早く済ませよう」
頬の血を拭いながら、影の主は王の間の横の書斎へ向かった。前の王が王政のためにまとめていた資料やこの国の歴史について書かれた本など、天井までぎっしり詰まった本棚の壁が2人を出迎える。部屋の中央には豪華な彫刻の施された木製のビューローが置かれていることから前はここで執務を行っていたことが分かるが、今の王にとってはただの物置だ。
「……で、やつらはなんで森に行ってたんだ?」
ビューローと同じ彫刻が背に施されている椅子にどかっと腰を下ろし、帝国の王は報告を促した。
「夜の鐘が鳴る半刻前、怪盗のアジトを襲っていた」
「は!?」
帝国の王はガタッと椅子を鳴らす。
「どういうことだ?詳しく説明しろ。ユイ」
ユイと呼ばれたフードの主は小さくため息をつくと、向かいの本棚に背を預けた。
「どうもこうも、言葉通りだよ。海賊たちは森の奥にある怪盗のアジトを街の住人から聞き出し、怪盗が活動を始める日没を狙って襲撃した」
怪盗は2人の身動きを封じアジトを去り、行方は分からず。少しして身動き出来るようなった海賊を取り押さえユイが問い詰め目的を聞き出そうとするも有力な情報は得られず。その後2人は始末したので王の命についてはご心配なく。
これが、報告の大まかな内容だった。
「怪盗を人質に俺から金を巻き上げる、か」
報告を一通り聞いた帝国の王は、頭の後ろで腕を組み、椅子の背にもたれかかる。海賊の狙いは、貴族になるべく海賊から抜け出した自分のはず。何故、住人から聞き出してまで怪盗を捕らえようとしたのか……。
「報告終わったから、帰っていい?」
「ん?ああ、いいぞ。お疲れさん」
ユイはつかつかと歩み寄ると、椅子の後ろの窓を開けた。確かに森に向かうなら窓が1番近いが、窓は人の出入口じゃないぞ。
「……ここの姉妹は揃いも揃って……」
「何か言った?」
「いいや、なんでも」
それ以上言及する気もなかったらしく、ユイは何も言わず窓に手をかけ、身を乗り出した。
「……大切なもの、海賊に奪われないよう気を付けなよ」
「え?」
それはどういう。
咄嗟に振り返った窓に、もうユイの影はいなかった。
ーーー
「ハーツ様、そろそろ出発のご準備を」
「……ああ」
満月は高く昇り、背の窓から光が射し込む。本当なら報告を終えてすぐに出発する予定だったが、先程の言葉がどうにも引っかかり、席を立てないでいた。
海賊が怪盗のアジトを襲撃。今までこちらが脅威とも思っていなかった存在をわざわざ狙った向こうの意図が全く読めない。
海賊の目的は、帝国の王を王座から引きずり下ろし、海賊へ引き入れること。最終目的は違えど王座を奪う点では怪盗と目的が同じだ。なら、海賊は怪盗と手を組むことにしたのか?
……いや、それでは襲撃するメリットがない。襲撃はもっとも相手を警戒させ、同盟を結び難くする。単に交渉するためなら、武器は持たないのが得策だ。そこに思い至らないほど、奴らは馬鹿じゃない。
かといって彼らの言葉を鵜呑みにしたとしても、怪盗を人質にした所で帝国に被害はない。街の住人が騒ぐくらいか。
──大切なもの、海賊に奪われないよう気を付けなよ。
先程の言葉を頭で反芻する。
大切なもの、海賊に奪われる。別に怪盗は大切じゃないが?……あいつらの狙いは、国を脅かす「怪盗」ではなく、その義賊を演じている「誰か個人」? その個人を人質にすることで、俺から金を巻き上げる……いや、もっと単純に、何か要求するのかもしれない。例えば、国を捨て海賊に戻れ、と。
それなら幾分か理解出来る。
つまり、「怪盗を演じる個人」は恐らく俺に対して交渉材料に成りうる人物ということだ。そしてその事を海賊たちは知っている。
そういえばそもそも、いくら国の奪還を目的にしている存在とはいえ、怪盗はあまりにも街の人から信頼されすぎている気はしていた。普通、正体の知れない人物に国の奪還を任せっきりにするだろうか。恐らく怪盗の正体は、街の人には周知の事実だったのだろう。だからこそアジトの場所も知っていた。
街の全ての住人から絶対的な信頼を寄せる人物。そして、俺にとって大切な存在。
そんな人間……
「……1人しかいねぇじゃねえかよ……」
情けなくもようやくたどり着いた答えに、絶望する。
俺が海賊を抜けてまで貴族になったのは、元々1人の少女に会うためだった。逆に言えば、少女は海賊から俺が抜けるきっかけを与えた原因。彼らにとっては敵で、なおかつ俺の弱点。そりゃ街の住人に訊いて回ってでも捕らえたいだろう。
「そういうことか……」
大きなため息と共に吐き出す。
「あのぅ……ハーツ様、出発のご準備の方は……」
俺が考え事をしている間ずっと書斎の入り口で待っていた兵が、恐る恐るといった様子で口を開く。もう出発の予定時刻はとうに過ぎていた。
「船の方には?」
「はっ、既に出航準備を整えまして、待機しております」
「そうか、すまないな。予定変更だ。一旦城に戻るよう皆に伝えてくれ」
「はっ、かしこまりました!」
ドタバタと忙しない音を立てながら、兵は階段を駆け下りていった。
予定変更。目標は、……怪盗だ。