王国で、アタシは孤独だった。
父も母も忙しいのか相手をしてくれず、外に出ることも許されず、貿易で手に入れた異国の書物や玩具だけが部屋に増えていく。教育係の侍女から一般教養を教わりながら、退屈な城で同じような毎日を送っていた。
ある日、見かねた侍女が父に頼み込んで、南国で手に入れたという観賞用の鳥をアタシに与えてくれた。綺麗な海色の瞳と、森を写したような翠の羽根。籠に閉じ込めるのが可哀想で、夜にこっそり窓から放した。
次の朝目が覚めると枕元にはすやすや眠る鳥と、真っ赤な木苺が2粒転がっていて。どうやらこの子なりにアタシと親睦を深めたかったのだというのだけ、幼心ながらに理解したのだった。
今思えば、この鳥との出会いが、今の全てに繋がっていたのかもしれない。
ーーー
「ねぇ鳥さん、この葉っぱはどこから取ってきたの? 綺麗な黄色だね」
王国城の自室。少女は窓枠に手をかけて、指に摘まれた黄色い葉を朝焼けの光に透かしながら話しかける。その傍らでちょこんと座った鳥は、軽く首を傾げるだけで何も答えない。
変わらず外に出ることを許されていない少女にとって、翠の鳥からの土産が外を知る唯一の機会になっていた。
夜のうちに外へ放つと、明け方には必ず何かしら森で採ってきたものが枕元に置かれている。その土産を見ながら他愛もない話を鳥と交わすことで、少女は退屈さと寂しさを紛らわせていた。
「アタシも行ってみたいな……」
摘んだ木の葉の端から太陽が姿を現し、眩しさに思わず目を細める。その様子を不思議そうに見つめた鳥は、ぐいっと少女の服を咥えて引っ張った。懸命に窓の外へ動かそうとする様子を見るに、どうやら外に誘っているらしい。
少女は困ったように眉を下げた。
「ふふ、ありがとう。お誘いは嬉しいけど、アタシは鳥さんみたいに飛べないから……」
飛べたらどんなにいいだろう、と考えた日もあったけれど。
なおも袖を引っ張る鳥を宥めるように撫でると、鳥は不服そうに鳴いて手のひらをつついてきた。意外と鋭くて、痛い。
何を、と開いた口は、新たに手のひらに握られたものの感触でつっかえる。そこに握られていたのは、
「…………リボン?」
赤くて滑らかな生地のリボンだった。先程まではなかった明らかな人工物のそれには、少し土埃がついている。自分の普段付けている装飾過多なものとは違って、シンプルなデザイン。街にでも行ってきたのかと思ったけれど、この土の匂いは間違いなく森の匂いだった。
「これは……?」
少女の問いに、翠の鳥は何も答えない。
窓の下に広がる森は、王国でも、山の反対側にある隣国の領地でもない中立域。人里はなく、普段人が出入りすることも無い。
そんな場所になぜリボンがあったのか。森に何かがあるのか。それとも誰かいるのか。
「これはアタシ貰えないよ。元の場所に返してあげて?」
手のひらに乗ったリボンをそのまま鳥に差し出す。小さなくちばしがリボンの端を摘んで持ち上げたものの、いつものように飛び立たない。窓の外に身体を向けてこちらをただじっと見つめ返していた。
まるで、子が着いてくるのを待つ親鳥のように。
まさか、と思いながら、右手の人差し指は自然と自分の口元を指す。
「もしかして……アタシも行くの?」
翠の鳥は羽根を広げ、その場で羽ばたくように羽を動かした。どうやら正解らしい。
「ええぇ……」
少女の口から困惑の声がこぼれた。
そんなこと、到底できる気がしない。というのも、自室でならそれなりに自由だが、自室を出て階下に行こうとした途端にどこからともなく侍女たちが現れるのだ。どんなに息を潜めていても、すぐに見つかり自室へ連れ戻されてしまう。
きっと、階下には王の執務室などがあるため立ち入らせないようきつく言われているのだろう。更に下の階にあるエントランスへ行くことが不可能なのは、言うまでもない。
「……」
ただ、少女にとっては陸の孤島に近いこの城で、外へ出る手段に1つ心当たりがあった。
鳥が佇む窓枠に近寄り外をうかがうと、右手に2階のバルコニーと、そこまで螺旋階段のように外壁から飛び出たレンガがあるのが見える。ここに足を付けられれば、そのままレンガを伝ってバルコニーに降りられるはずだ。城内で侍女に捕まるたびに考えていた、夢のような脱出劇。
「……よし」
後ろの扉に人の気配がないのを確認した少女は小さく気合を入れて、窓に手をかける。軽い身体は案外簡単に外に出て、そのままレンガの足場へ着地した。幸い風は吹いておらず、壁に手をついている限りふらつくことはなさそうだ。鳥はそれを確認するとすいっと音もなく羽ばたき、バルコニーの手すりに着地した。レンガから足を踏み外さないようにそろそろと移動し、少女も遅れてバルコニーに降り立つ。大きく息を吐いて顔を上げると、バルコニーから先の経路は考えていなかったことに思い至った。
「ど、どうしよう……」
おろおろと周りを見渡すと、鳥がすぐそばの木に留まったのが目に入った。少し手を伸ばせば届きそうな距離の、手頃な枝がこちらに伸びている。
「もしかして、それで降りるの……?」
つぶらな海色の瞳は、じっと見つめてくる。無論、木登りなんてこれまで1度もしたことがない。
ただ、不思議と恐怖はなかった。むしろ、本で読んだ冒険小説の主人公のような高揚感が、背中を押している。
「……わかった、やってみる」
少女はバルコニーから身を乗り出し、枝の先を両手で掴んだ。重みでたわんだ枝は、反動で少女を釣り上げるようにバルコニーから引きずり出した。
「わ、わ……!」
身体が浮き上がった感覚に、思わず身を固くする。少女を乗せた枝は弓のようにしなり、そのままゆっくりと頭を垂れていく。
すとん、と軽い音を立てて、少女の身体は地面に降り立った。一瞬の出来事に思考が追いついていない少女は、そのまま立ち尽くす。手を離れた枝は葉を揺らしながら上向きに伸び直った。
「……出れ、ちゃった……」
上方に見える自室から、カーテンがたなびくのが見える。あの場所から本当にここまでこれたのが、にわかには信じられない。
放心した少女を見守るように佇んでいた鳥は、ピュイと一声あげて森の中へ飛んでいく。
「あ、待って!」
少女は羽音を追って、初めて森へ足を踏み入れた。
ーーー
「っ、はっ……ま、まって~~~!!」
少女は木漏れ日を浴びながら森を駆け抜けていた。宙を翔ける翠の鳥は少女を離しては先の木に留まり、追いつきそうになるとまた翔ける。
初めはどこまでも森の中を駆けていける自由さに心が踊っていたが、少女は如何せん部屋以上に広い場所を走ったことがない。すぐに息があがってしまい、足取りもだんだん重くなってきている。ちらりと後ろを振り返ると、そこにもう城のとんがり屋根はなかった。一体どこまで行くのだろうか。
「……あっ……!」
暗闇に紛れていた木の根に足を掬われる。既に力の入らない足は、よろけた身体を支えられず地面へ倒れ込んで……
「……どうした、こんなところで」
ぐん、と腕を引っ張る感触。倒れ込む前に静止した身体の背後から、凛と鈴の音のような声が聞こえた。
体勢を立て直して振り返ると、そこには深い森色のマントを羽織った、同じくらいの背丈の人物がこちらを見つめていた。
フードの影から覗く瞳は翠の鳥とよく似た南国の海色で、思わず息を呑む。声の感じからすると、女の子だろうか。
もしかしてあの鳥が持っていたリボンは、この人のものなのだろうか。
「……迷子か。名前は?」
「えっと……ユウ。ユウ・エステラって言います」
少女は少し考えてから、偽名を名乗る。
「……ワタシはユイ。どうしてこんな森の奥まで?」
「あ、それは……あそこの鳥さん、私のお友達なんですけど、森に何かあるみたいで、ついていってるんです。……多分、このリボンの持ち主がいるんじゃないかって」
リボンを差し出すと、ユイと名乗る人物はそれをしばらく見つめる。そして枝に止まってこちらを見てくる鳥の方を向くと、口笛を吹くように音を発した。鳥は応えるように鳴き、すぐに飛び去ってしまった。
「あっ、待って……!」
「大丈夫。もうすぐそこだって」
ユイは涼しげな顔でそう言うと、スタスタと歩き始める。何も状況が掴めていないまま、少女も置いていかれないようついていく。
「このリボン、ユイさんのじゃないんですか?」
ユイの歩幅に合わせて早歩きをしながら、少女は状況を掴もうと疑問を投げかけた。海色の瞳はフードの隙間からこちらを一瞥し、また前へ向き直る。
「ワタシのじゃない。あと、ユイでいい。貴方より年下だから」
淡々と話し、そのまま歩みを進めていく。少し開けたところに小屋があった。赤レンガでしっかりした造りのわりに、こぢんまりとしている。誰も住んでいなさそうなその小屋は、所々レンガが崩れて穴あきチーズみたいになっていた。その穴のひとつに翠の鳥は留まっている。
「ここは……?」
そう言いつつ小屋の中へ進むと、荒れた小屋の中に倒れている人影が目に飛び込んだ。丸まるようにして目を閉じた、小柄な子供。細かい亜麻色の長い髪がほどけて広がっている。
「え!? ちょ、大丈夫!?」
「……血色が悪い。食料取ってくるから、ユウはそこの布でくるんで暖かくしてあげて」
ユイは険しい顔でそう言うが早いか、風のように飛び去っていった。去り際に指された方を見ると、木箱を包んでいたであろう大きな布が畳まれているのを見つけた。汚れてはいるものの、頑丈に編まれていて風を通さなさそうだ。確かに身体を暖めるにはちょうどいい。
軽くはたいて埃を落とすと、それを広げて子供に向ける。
改めて見てみると、かなり身なりのいい格好をしている子供だ。ジャケットに目立ったシワはないし、タイのトップについている宝石も大きい。どこか貴族の子供なのかもしれない。格好からすると、男の子だろうか。
そんなことを考え始め、布を持ったまま固まる。翠の鳥は見かねたようにレンガの壁から羽ばたき、少女の目前を通って子供の懐に降り立った。はたと意識を目の前に戻した少女は、懐で丸まった鳥ごと被せるように布を掛けた。きっと冷えた体を一緒に温めてくれるだろう。
それからしばらくして、ユイが食料を片手に戻ってきた。火を起こし粥を作り、すっかり日が陰ったころに、布に包まれた子供が目を覚ました。身体を起こすと、困り眉で辺りを見回す。ふっと息をふきかけただけで消えそうなその儚げな見た目は、少し幼い少女のようにも見えた。その手元で同じように体を起こした翠の鳥は、羽を広げ伸びをする。
「……皆さんは……」
「話は後で聞く。まずはこれを食べな」
ユイが差し出した丸い木の器には、湯気が立ったお粥が盛り付けられている。子供は不安そうに器を受け取りこちらを伺ったが、続けてユウやユイの分も盛り付けている様子を見て安心したのか、そっとひと口掬って口にいれた。途端に、目が輝く。
「……おいしい……!」
そのまま子供はあっという間にお粥を平らげた。そのタイミングを見計らって、ユウはポケットからリボンを取り出す。
「ねえ、これ、アナタのリボン?」
「あ、そうです。ほどけちゃったんだ……ありがとうございます」
困り眉で笑ってお礼を言うと、そのまま身の上を話してくれた。
彼の名前はロイ。食事を取っても上手く栄養に回せず戻してしまう病にかかっていて、ここ1週間、まともな食事を取っていなかったらしい。あまりの空腹に気付けば家を抜け出していて、アテもなく歩いていたときにこの小屋を見つけ、入ったところで気を失っていたのだと言う。
病気の話を聞いたときはロイがそのままお粥を戻さないかヒヤヒヤしたが、そのあとは特に体調を崩すこともなく、元気な様子だった。
そうこうしているうちに日が暮れていく。ユイは焚き火に枝をくべて、火を強くする。
「それで、ロイ君はこれからどうするの? おうちに帰るの?」
ユウが疑問を投げかけると、ロイはじっと焚き火を見つめた。
「そう……だね。帰らなきゃいけないけど、帰るなら明日……かな」
「それがいい。森どころか外に慣れてない王族の人間が、こんな暗い中歩き回るのは懸命じゃない」
ユイの言葉にロイが目を見開く。なんで……と声を零しているが、ユイは気にせず続ける。
「ユウも。今日はもう暗いから、城に帰るのは明日以降にした方がいい」
「えっ、なんでアタシが、城から来たって……!?」
ユウも同じように驚き、疑問を投げかける。城の人間であることを口にした覚えはない。見た目だけで言えば、街の子供と変わりないはずだ。ユイはすっと腕を持ち上げ、ユウの服の裾を指さした。
「王族の刺繍はそれぞれに意味がある。2人の服に縫い付けられているのは、王位継続前の子息の証の新芽。そして今の王には形式上、娘しかいない。だからユウが城の方の人間なのは明白」
指されたドレスの裾を見ると、確かに細かい刺繍が施されていた。ロイも同様に、シャツの裾を引っ張って同じ模様を見ている。
「今のところ王位継承権は国王の娘と、王の弟夫婦の息子にある。あとは見ての通り」
「そっか、じゃあロイ君はいとこなんだね。全然知らなかった……。物知りなんだね、ユイ」
「……ワタシも王族の血縁だから、気になって調べただけ」
「え、どういうこと?」
ユイは腕をマントに仕舞いながら答える。
「ワタシはユイ・エステラ・レッドフォード。……つまりユウ、貴方の妹」
「え……」
ロイも隣で同じように驚きの声を漏らした。ユイ・エステラ・レッドフォード。確かにレッドフォードは王族の姓だが……。首を傾げながら疑問を口にする。
「でもじゃあなんで、森で暮らしてるの?」
「……色々あってね。今は山賊だ」
山賊。
初めて聞く名前にまた首を傾げる。ユイ曰く、中立域である王国の周りの森、そこを管理しているのが山賊らしい。森の民というのが正しいが、山賊と呼ばれることの方が多いという。
相変わらず淡々と話すその声音に、嘘はない。嘘はないが、なぜ王国で生まれたユイが山賊として生きることになったのか……なぜその存在を両親はユウに知らせなかったのか、知りたいことは何も分からない。
困惑の色を滲ませるユウの顔を見て、ユイは小さくため息を付く。分かっていた、という顔だ。
「……まあ、そんな深刻に考えなくていいよ。もう王族と縁は切れてる。これからもユウが国王の一人娘ってことは変わらないから」
「そ、そんなことない!」
会話を切り上げようとするその声を、ユウは思わず声をあげて遮った。その動きで炎が揺らめく。
「……確かに今は山賊かもしれないけど、ユイがアタシの妹だっていうのは、本当なんでしょ?」
少なくとも、ユウに信じてもらえない覚悟で言ってくれた彼女の言葉は信じたかった。
隣のロイも、下がり眉を精一杯吊り上げてうんうんと頷く。
ユイは2人の顔から目をそらすと、そのまま瞼を閉じた。
「そうだね。その事実は変わらない。……それだけ覚えていてくれたら、ワタシはそれでいい」
どっちにしろ、国王にもう1人娘がいるなんて話、誰も信じてくれないよ。
諦めが滲むユイの声はパチパチと音を立てて燃える炎に紛れる。きっと広い森で暮らす彼女には、何か違うものが見えているのだろう。まだ10歳にも満たないユウには、ユイの言葉の意味を理解することが出来なかった。
「今日は走り回って疲れてるはずだ。もう眠りな」
「うん……」
そう言われて初めて、眠気を自覚する。瞼がとても重い。意識したとたん、一気に眠りへ落ちていく。
「……おやすみ。ユウ」
包まれるようなその声に、ユウは意識を深く潜らせた。
ーーー
「……ねぇ、なんで貴方はユイって名乗ったの?」
「なんでって……妹だから」
寝息を立てて眠るユウの隣で同じように布にくるまったロイが、眠気を持て余すように口を開く。焚き火の跡から細く煙がたなびく。
「ユウは最初、なんて名乗ってた?」
ロイの言葉に、ユイは昼間の一幕を思い出す。彼女が名乗った名前は……
「……ユウ・エステラ」
「そっか。……じゃあ、この国のお姫様の名前は知ってる?」
「……あ……ユエステラ……レッドフォード……ふふ、そういう事か」
自分で言いながら、ようやく思い至ったその名前に、ユイは苦笑いする。最初に名乗られたものに、すっかり引っ張られていたようだ。
ロイはやっぱり、と微笑む。
「ユウは王族の本家だから、僕やユイのその名前みたいな、ミドルネームは無いんだよ」
つまるところ、ユイ・エステラ・レッドフォードが少なくとも偽名であると、ユウはわかっている。
「……ユウには王族の財産を狙って血縁を名乗る嘘つきとでも、思われたかな」
自嘲するように呟くと、ロイはゆっくり首を横に振った。
「それなら多分、ユウはユイのことをあんなに引き止めたりしないよ」
「じゃあなんで……」
「……分かんないけど、ユウも、妹が出来て……嬉しかったんじゃないかなぁ」
そう言って、ロイは眠そうにふにゃりと笑う。
「もちろん、本当の名前でもユウなら呼んでくれると思うけど……」
「……ワタシは、妹として"ユイ"と呼んでくれるなら……それでいい」
「そうだね。僕もそう思う」
その言葉の後に続いた欠伸につられて、ユイは静かに瞼を閉じた。
ーーー
澄んだ風が肌をなでる。
意識がゆっくりと浮かび上がってきて、周りの音が鮮明に聞こえてくる。木々のさざめき、川のせせらぎ、鳥のさえずり……まるで森に包まれているような……
「……ん、森……?」
「森だよ。起きな」
鈴のような声に目を覚ますと、海のように碧い瞳の少女がこちらを見下ろしていた。
「……ユイだぁ……おはよ……」
「おはよう、ユウ」
ぼんやりした頭で挨拶を交わす。そしていつも通りに体を起こしてベッドから降り……れない。そこは地面だった。
「……ん〜?」
まだ思考が回らない頭を捻る。そしていつも通り枕元にある鳥さんからのお土産……が無い。というか枕がない。ぺしぺしと地面を叩く。
「大丈夫? どこか痛い?」
奇っ怪な動きをするユウの顔を、亜麻色の髪の少年が覗き込んできた。真っ直ぐ切り揃えられた髪の下の瞳は、木漏れ日のような緑だった。
「ううん、痛くないよ〜」
「よかった。ユイがご飯作ってくれたんだ。食べよう?」
困り眉でそう笑うと、少年……ロイは細い両手を差し出して、ユウを引っ張り上げる。朝焼けが柔らかくレンガの壁を照らしていた。
小屋の外ではユイがスープの鍋をかき混ぜている。スパイスの効いたいい香りだ。ロイから銀製のスープカップを受け取ると、ユイの元へ向かう。程なくして出来上がったスープは猪肉入りらしい。
「……そっか、昨日は森でそのまま寝ちゃったんだっけ」
「ふふ、そうだよ」
ようやく回りだした頭で理解すると、スープカップを両手で包んでいるロイが困り眉で笑った。つられてユウも頬を緩める。
「今日はよく晴れる。食べてすぐに出発すれば、昼には戻れるよ」
それぞれのスープを取り分けたユイは、空を見上げながらそう言った。つられて見上げた空は淡い朝焼けに染まっている。
「……わ、おいしい」
空を見上げる2人をよそに、隣のロイは出来たてのスープに夢中になっていた。みんなも早く飲もうよ、と眉を下げて笑う。
その言葉に応えるように、ユウはひと口スープを口に含んだ。深みのある味が口いっぱいに広がる。スパイスのおかげか、肉の臭みはほとんど感じない。
「……ほんとだ、おいしいね」
ロイにそう語りかけると、ロイははにかみながらまたひと口スープカップを傾けた。
身体の内から温まる素朴な味は、いつも自室で食べる豪華な食事よりも美味しく感じた。こうやって食卓を囲んでのご飯は初めてで、少し慣れない。でも、スープから揺らめく湯気をぼんやりと眺めながら談笑する時間は、どこか心が安らぐ。
大きく傾けて最後の一滴を飲み干すと、ユウはほっとため息をついた。
「帰りたくないなぁ……」
思わず零れた言葉に、ユイとロイは顔をこちらへ向けた。不安そうに眉を下げたロイが口を開く。
「……お家、嫌いなの?」
「ううん、そんなんじゃないよ。ただ、皆といるのが楽しいから……もう会えないのが寂しいだけ」
ユウは静かに答えて、そっと目を伏せた。
そう、このまま家に戻ってしまえば、きっと勝手に城を抜け出したことを咎められる。そうするともう、同じように外へ出ることは叶わない。元々外出の許可など得られていないのだ。2人と会うのは、これが最初で最後になるだろう。
黙り込んだユウを、ロイが心配そうに見つめる。ユイはユウの様子を気にするでもなく、鍋の片付けを始める。
「別に、また会えばいい」
片手間に発された淡白な言葉には優しさが滲む。目線を上げると、ロイが眉を下げながら微笑んだ。
「そうだね、またここで会おうよ」
せっかく友達になれたんだもん。
そう言うロイの暖かい眼差しがユウに向けられる。空っぽで冷たくなったスープカップを包むユウの両手に、少し力がこもった。
「でもアタシ、あまりお外に出られないし……」
どうしても弱気なユウの言葉に、ロイはしばし困ったように考え込む。何かに思い至ったように眉を上げたロイは、森の匂いを吸い込んだ赤いリボンをほどいた。それを両手ですくうように差し出す。
「……じゃあ、今度僕が森に来る時はリボンを届けてもらうよ」
差し出した両手を掲げると、程なくして小鳥の羽ばたきが耳に届いた。朝焼けで淡く照らされた翠の鳥が軽やかに空から降り立ち、ロイの手のひらからリボンを啄んだ。
「これがユウの手元に届いたら、ここで会おう?」
赤いリボンはくるりと弧を描いて、ロイの手元から離れる。翠の鳥はユウの頭に留まり、リボンを目の前にふわりとかざす。小鳥はピュイ、と笛を吹くように鳴いた。頭上に目を向けると、同様にこちらを見下ろす海色のつぶらな瞳と目が合う。
「……そっか。それならきっと……また会えるね」
まだ何も解決してはいないけど、何故か大丈夫だと思えた。自然と緩んだ声に、ロイは微笑んで応える。
鳥はもう一度羽ばたくとロイの手元にリボンを戻した。ほんとに賢い鳥さんだね、とロイが眉を下げて笑う。
ユウがその言葉に頷いていると、ユイが物言いたげな目でこちらを見ていることに気が付いた。
「……早くそれ、渡して」
それ、と指された先にはユウの手元でじんわり温まったスープカップがある。ロイと話している間に、他の分は片付け終わっていたらしい。
「ふふ、……ありがとう、ユイ」
思わず笑みをこぼしながら、ユウはスープカップを手渡した。
ーーー
木漏れ日がきらきらと揺らめく森の中を、3人は並んで歩いていった。地面の傾斜が強くなったころ、ユイは腕を持ち上げ、指をさす。
「ロイの家はあっち。あの青い屋根を目印にまっすぐ進めばたどり着く」
「うん、分かった。ありがとうユイ」
ロイは名残惜しむように背を向けた。彼の行く先からは街の喧騒が聞こえる。山頂にある城とはまた違って、賑やかな場所なのだろう。
「……またね、ロイ君」
ユウが大きく手を振る。ロイは振り返ると胸元で控えめに手を振り、街の方へと進んでいった。それを見送って、ユウとユイは更に森の坂道を上っていく。しばらく歩みを進めると見慣れたとんがり屋根が見えてきた。城壁に沿うように歩いて森の出口まで来たところで、ユウは足を止めた。
「……どうやって帰ろうかな……」
「どうって……玄関から入れば?」
何を当たり前のことを……と言いたげなユイの目線を受けて、ユウは上方の窓を見た。バルコニーより上にある、昨日から開けっぱなしの窓。
「出来ればあの窓から戻りたいんだけど」
「……ああ……」
ユウの一言で大体察してくれたらしいユイは腰にまとまった荷物から何かを取り出すと、そのままユウに差し出した。
「……これ使いな」
ユウの手に渡ったのは、しっかりした縄で編まれたハシゴだった。先端には重りが付いている。手に乗ったそれをまじまじと見つめてから、ユイの顔を見た。
「これ、どうやって使うの?」
「……貸して」
手渡されたハシゴを、一度ユイの手に戻す。ユイは重りの反対側を掴むと、そのままぐるぐると手元で振り回し、バルコニーへ向けて手を離した。真っ直ぐ飛んだ重りはカランと音を立てて手すりに引っかかり、足元までハシゴが垂れ下がる。ユウは思わず控えめながら拍手を送った。
「これで上がったら、あとはあの足場で部屋まで戻れると思う」
バルコニーから自室の窓まで、城壁に沿って飛び出たレンガをユイは指した。まさに部屋を出る時に通ったルートだ。
「すごい……アタシよりお城のこと詳しいね。ありがとう、ユイ」
「仮付けだから、登ったら重りのところちゃんと結んでおいて。あの位置なら見つかりにくいだろうし」
ユイはお礼には応えず、そのまま踵を返す。フードを深くかぶり直して、森の中へ消えるように歩いていった。その背中を、ユウは手を振って見送る。
「……よしっ」
見えなくなったのを確認してから、ユウは小さく気合いを入れて、ハシゴに手をかけた。
ーーー
昨日から開け放たれたままの窓は、レースのカーテンをたなびかせて部屋の中へ風を送り込んでいた。窓際までたどり着いたユウは、風の流れに身を任せるように身を乗り出す。ついてきた翠の鳥も窓辺へ降り立った。
一晩留守にしていただけなのに、部屋の中がひどく久しぶりに感じる。自室の硬い床に足を付けても、どこかふわふわと夢心地のままだ。けれども自分のドレスには森の香りがほのかに残っていて、先程までの体験が夢ではないと確かに告げている。
「姫様ー? そろそろお目覚めですかー?」
ぼんやり部屋の中を眺めていると、向かいの扉から侍女の声が聞こえた。既に太陽は天頂に近い時間だ。ユウは慌てて答える。
「は、はい! 起きてます!」
ユウの返事を受けて扉が開けられ、侍女が食事の乗ったトレイを片手に入ってきた。
「ふふ、今日はお寝坊さんですね」
「えへへ……」
侍女は近くのテーブルにトレイを置き、食事の準備を整えていく。ユウは侍女の言葉を笑って誤魔化す。
「はい、準備できましたよ」
「うん。ありがと、おば様」
おば様はよしてくださいよ〜と笑いながら、侍女は普段と変わらない様子で部屋を後にした。ユウの様子について特に違和感は覚えなかったようだ。扉が閉まってから、ユウは詰めていた息を一気に吐き出した。
そして自然と、目線はテーブルに置かれた料理に移る。つやつやとしたオムレツと、ほのかにハーブの香りがするソーセージ。小麦の香りを漂わせる白いパンに、この国の特産林檎ジャムの小瓶。
どれも確かに美味しそうなのに今ひとつ食欲がわかないのは、先程スープを飲んだばかりだからだろうか。
それでもそのまま冷めてしまうのは勿体ない。ひとまず席について、パンをひと口分ちぎって口に放り込む。柔らかくもしっかりと小麦の味がするそのパンをしばらく咀嚼して、ユウはふと気付く。
「……昨日出ていった時って、まだお昼前だったよね」
普段なら、昼食や夕食、沐浴など時間ごとに侍女が訪れる。当然、ユウが森へ行っていた間にも何度か部屋を訪れたはずだ。
「なんにも言われなかったな……」
小瓶からジャムを掬い、そっと二口目のパンに乗せる。
普段はこっそり城内をうろついてると、すぐ侍女たちに見つかり連れ戻されていた。時折顔を合わせる父にも、部屋で大人しくしていなさいと言われるのが常だった。そんな日常を送っていたので、部屋に戻って侍女が来たら真っ先に部屋の留守について問いただされると思っていた。
「……まあ、なんとかなったってこと……なのかな」
どこか釈然としない気持ちを断ち切るようにソーセージを齧る。子気味のいい音が、静かな部屋に響いた。
ーーー
木漏れ日の届かない森の奥。道と呼べる道もない深い場所を、フードを被った人影は歩いていた。木々を縫うように進むと、草木で隠れるようにして佇む洞穴が姿を現す。中からひやりと湿った空気が頬を撫でる。その先は更にほの暗くなっているが、人影はそれを気にも留めず足を踏み入れた。しばらくはほとんど何も見えない状態だったが、深く進むと周りがほのかに明るくなり、そのまま開けた空間に出た。岩肌で覆われた壁にぽっかりと青空が浮かんでいるのが目に入る。崖が崩れて出来たその天然の窓から、ひやりとした風が吹き抜けていった。
その窓の傍では、白髪の老人が平たく削られた岩に薬草を広げている。老人は人影に気付くと、手にしていた薬草を置いて片手を上げた。
「おかえり、ディナ」
「……ただいま、頭領」
ディナと呼ばれた人影はフードを外す。海のような深い碧色の瞳が、空の光を受けて艶めいた。
「迷子は無事に返せたのか?」
「なんとかね。鍋、貸してくれてありがとう」
腰に下げた荷物を壁際に下ろしながら、ディナは簡単に礼を述べる。
「例には及ばん。だがなぜ坊主は森で腹を空かせておったんだ?」
「……病気があるって言ってたけど」
「病気ィ? そんなの聞いとらんぞ」
ディナの答えに意外そうな顔をすると、頭領は傍で薬草を干していた青年を呼び寄せる。坊主……国王の甥にあたるロイの病気について尋ねると、青年は少し首を捻って答えた。
「ああ、ラミレスの坊主か。それが俺も分からないんだよな。わざわざ国王が異国から医者を呼んでいて間に合ってるって、ろくに診せてくれないんだ」
「うちを通さずに? まさかあの若造、森の民と縁を切るつもりか……」
訝しげに呟く頭領をよそに、ディナは思考を潜らせる。
国に属さない中立の存在である森の民は、森で採れる薬草を扱う薬師として王国と協定を結んでいる。森を開拓してきた王国側は、国土をこれ以上広げないという条件でそれを受け入れていた。その背景がありながらロイへの施術を拒み、異国の医者に任せているという。もしかしたら国王は協定を破棄したいと考えているのかもしれない、と頭領は考えているようだ。
(……でも、ロイだけっていうのは妙だ)
頭領と青年の話を聞く限り、森の民が薬師として治療に関われていないのは王の甥、ロイの病気だけらしい。
彼は食事でうまく栄養を摂取出来ず戻してしまう病気のため、食事自体に制限を受けていると言っていた。ディナの脳裏に、粥や猪肉のスープを平らげていたロイの姿が浮かぶ。
ディナが黙り込んでいると、隣の青年は自嘲するように呟いた。
「まあ、どうせ王国からすれば俺らはただの山賊だからな」
「……ワタシ、少し調べてみる」
「やめとけ。ろくなもん出てこないぞ。それにあいつらは……」
青年はディナの方を向き、静かに続ける。
「……お前を捨てたんだろ」
「だから知りたい。今度はロイに何をしようとしているのか」
臆することなく真っ直ぐ見つめ返す碧い瞳に、青年は思わず息を飲む。しばし睨み合うように顔を合わせていたが、先に青年が折れた。
「……はあ、まだ8つだってのに……この頑固さは頭領似だな」
「おい何か言ったか? 小童め」
頭領の顔が勢いよく青年の方を向く。青年は「何も言ってませんよー」と視線をかわし、薬草を干しに戻っていった。頭領は頭を抑えるようにため息を吐いたあと、ディナの方を見やる。
「さて、ディナ。まだ日暮れには時間があるだろう。薬草の仕分けを手伝ってくれ」
「分かった」
頭領が作業に戻ると、ディナはその向かいに腰掛けた。雑多に盛られた薬草の山から、種類ごとに手際よく選り分けていく。
(ロイの病気だけ森の民に診せてくれないってことは、きっと王は何か隠している)
手元を動かしながら、ディナはまた思考を潜らせる。病気についてロイ自身は深く気にしていない様子だったが、胃に優しい粥はともかくスパイスを効かせたスープも平らげたことは引っかかる。あのスープを食べて調子を崩さないなら、食事を抜くことが適切な治療であるとは考えにくい。勿論、条件もあるのだろうけど。
(……まずは医者について調べるか)
薬草の山を大きく崩して、絡んだ根を解す。
解れた薬草を選り分けている頭領が、手をとめずに呟いた。
「何を考えとるのか知らんが、無理はするなよ」
「……うん」
ディナはそれだけ答えて、手元に意識を戻す。傾いた陽の光が、手元を照らすように静かに差し込んだ。