厚い雲が空を覆う。普段ならまだ夕焼けでほんのり明るい空は、ひと足早い夜を迎えたようだ。時折零れ落ちる雨粒が、地面に触れてぱたぱたと音を鳴らしている。
海が望める墓地のベンチで、少女は雨粒をフードで受け止めながらその様子を眺めていた。
今日の仕事も墓の土を盛り直す作業くらいで、日が傾く前に呆気なく終わった。手ぶらでいることが兵士にばれないよう自分で仕事を増やして、どうにか1日が終わっていく。
この収容所で墓守を担うことになって1ヶ月ほどは、元々溜まっていた「仕事」がたくさんあった。しかし要領を掴んできたころには仕事らしい仕事は無くなり、こうして既にある墓の整備をするだけになっている。この雨で明日やることが増えてくれたら幾分か心が楽になるのだけれど、きっと雨は大地を固くならして、やることを奪っていくのだろう。
雨風や寒さを凌ぐために与えられた茶色の外套が少し重みを増してきたころ、雨足に混じって土を踏みしめる音が聞こえた。
「おつかれ、シュナ。調子どう?」
「……まずまずですよ。リュウはどうですか?」
足音の方を振り返ると、少女より小柄な黒髪の少年が地下牢の入口で佇んでいた。片手には紙切れを持っている。
「こっちは怪盗から返事が来たとこ。相変わらず進展はないみたいだけどな」
「そうですか……」
少女はそう返事し、また向き直る。
土を打つ雨音は次第に大きくなっていく。
「……戻んないの?」
雨音に紛れて少年の声が届いた。
少女の座るベンチから彼のいる軒下まではそう遠くない。雨足は強くなる。
「……もう少しだけ」
染み込む雨粒の重みを感じながら、それだけ口にする。
少年はぱしゃぱしゃと足音を立てながら少女の横に近寄り、海を背にして腰掛けた。フードの隙間からそれを確認すると、少女は目線を海に戻す。
「風邪引いちゃいますよ」
「……兵になんか言われたのか?」
少女の声には答えず、代わりに問いかけてきた。少女は首を横に振る。
「特に、何もなく過ごしました」
「そっか。それならよかった」
少年の声が淡々と答える。
……そもそも、この墓地に兵士は来ない。そうなるよう帝国の王が手配している。
「こっちは今日もフェルが抜け出してさ、危うく兵に見つかるとこだったよ」
たはは、と困った声は雨音に吸い込まれた。
「シュナのとこ行くー、って言ってたけど、そっち来た?」
「いえ……今日はずっと、私1人でした」
手元を見つめながら答える。ここ最近は新しく墓地に来る人もなく、ずっと1人だ。
その後も少年は他愛もない話を続けた。最近始めた武具を磨く仕事が結構板についてきたとか、たまにフェルに邪魔されながらもなんとかこなしているとか。
こんな風に誰かの話を聞くのは、ひどく久しぶりな気がする。
「……ごめんな、いつもひとりぼっちにさせて」
ふと、少年はそう口にした。
「え?」
「オレらはまだ仲間がいるけど、シュナはずっとここで1人だろ? 仕事も大変だろうし……」
雨音に負けない声量で、少年は続ける。
彼は自分より先に居た収容所の先輩ではあるけれど、こんな小さな男の子に心配されてしまうとは。余程、疲れているように見られているのだろうか。
精一杯、声を明るくして答える。
「大丈夫ですよ。こちらは何もないですから」
「……辛くないの?」
少年の短い言葉が、先程の心の内を聞いていたかように、的確に、鋭く突き刺さった。
「辛くない……ですよ」
「ほんとに?」
「ほんとです」
体を倒してこちらを覗き込む彼に、そう答える。半分意地だ。
少年は、ふぅん、とつまらなさそうに呟くと、おもむろにその場で立ち上がった。
「じゃあオレは辛い!」
「え?」
突然、少年は声量を上げた。唐突すぎて肩を竦めてしまう。急にどうしたのか、呆気に取られていると、こちらを見て不敵に笑った。
「オレはしんどい仕事を任されてるし、1人で1日ぼんやりしていたら終わるシュナと違って、すんげぇ辛い!」
瞬間、心臓を一気に絞られる。
「な、何を……」
「シュナがそう言うなら代わってほしいよ。辛くないんだろ? その仕事」
絞られた心臓に、最後の一撃。
それは、普段ならなんとも思わない言葉だった。むしろ、いつも自分に言い聞かせている言葉。
けれど……
「……ないです」
「ん? 何か言ったか?」
気付けば少女の口からは、感情が零れていた。
「……辛くなくなんか、ないです」
それはとても震えた声で。
「皆は苦しい思いをしているのに、私だけ、こんな簡単な仕事で……それが苦しくて、辛いのに、……辛いはずなのに!!」
慟哭のように溢れる言葉を、少年に押し付ける。少年は何も言わず、ただ見下ろす。
しばらく嗚咽のような音を繰り返したあと、少女は握りしめた両手をほどき、手のひらを見つめた。
「……涙が、出ないんです」
声の震えは確かに涙ぐんだものであるのに、瞳はまったく潤まない。泣き叫ぶ格好を取っても、乾いた空気が喉を通り抜けるだけ。
母を失ったあの日から、墓守になったあの時から。
少女の瞳は、雫を零さなくなっていた。
「もしかしたら、皆より仕事が少ないことに安堵しているのかもしれません。楽な仕事であることを、喜んでいるのかもしれません」
自分はなんて薄情な人間なのだろう。
少女は孤独の中で、そう自責していた。
「それが、私にはとても……辛いの」
最後にそう呟くと、少女は口をつぐむ。
勢いに任せて放った言葉は、少なくとも、自分より前からこの牢獄にいる少年に言うべきものではなかった。
後悔がじわりじわりと服に染み込んで、体もだんだん冷えてきた。
後ろをちらりと見ると、少年はなぜかとても嬉しそうに笑っていた。
「なんだ。ちゃんと言えたじゃん」
「え……?」
思いがけない言葉に戸惑っていると、少年は回り込んでベンチに腰掛ける。少女は少し身を固くした。
「シュナの言ってたこと、なんとなくわかるよ。俺の弟もそうだった」
「弟さんが……いるんですか?」
シュナの言葉に、少年は頷く。
兄弟の話は初耳だ。
「オレ、ここに来る前は王国孤児院にいたんだよ。そこじゃ皆家族だったからな。弟も妹もいっぱいいた」
「……リュウが1番お兄さんだったんですね」
そう返すと、リュウは誇らしげに笑う。しかしその笑みもすぐに消え、そっと目を伏せた。
「……そいつもシュナみたいに両親が亡くなって、孤児院に来たんだ。親戚は、親が死んだのに全然泣かないやつは気味が悪いって、誰も引き取ってくれなかったらしいよ」
リュウの口から、淡々と語られる。
「でも、オレはそれは普通だと思う。心が無いとかじゃなくて、ただ一旦しまい込んでたんだよ。1人で抱え込んで、辛いのをやり過ごそうとしたんだ」
そこで口をつぐんだリュウは、言葉の続きの代わりに、ぐっと眉を歪めた。
「……今でも、辛い思いをしているんでしょうか」
おずおずと問いかけると、リュウは少し難しそうに考えこむ。
「孤児院に来て、あいつには寄り添ってくれる妹が出来た。それを分かってくれる姉さんが出来た。完全に吹っ切れたとまではいかないだろうけど、……あいつなりに、踏ん切りはついたと思うよ」
今はいない家族へ思いを馳せるその表情は、普段の元気な様子とは雰囲気が違っていた。
「……まあ、そういうわけで。シュナにはシュナなりのしんどさがあるだろうし、それを自分で責めなくてもいいって、オレは思う」
それでも、どうしても泣きたいならさ。
リュウはそう言うと、その場でまた立ち上がる。両腕を広げて、全身に雨を浴びているようだ。
「シュナも、こんな雨の日に空見上げてさ、思い切り雨を受け止めたらいいよ」
リュウにならい、シュナもフードを外して空を見上げた。額に雨粒が落ち、頬を滴り落ちていく。
「……オレが泣きたい時には、こうやって代わりに空に泣いてもらってたんだ」
ちょっとだけほんとに泣いてたけどな、と照れくさそうに微笑む。
普段は見ることのない彼の顔から、なぜだが目が離せなかった。
「……2人とも、こんな所にいたのか」
突然、2人の背後から、雨の中でもよく通る凛と静かな声が聞こえた。
はっと後ろを振り返ると、そこには闇に溶け込みそうな暗い色のフードを被った人影がある。
「囚人が戻ってこないって言うから探し回ったよ。風邪引いたら治すの大変なんだから、早く戻りな」
人影はそう言うと、すぐにまた闇に紛れて見えなくなった。
「……誰? あの人……」
「……さあ……」
シュナにもリュウにも心当たりのない人物だが、その人影の言うことももっともだ。
少し弱まった雨音を聞きながら、2人は地下牢の入口へ歩みを進め始める。
「なあ、シュナ」
「なんですか?」
ぽつりと呟くリュウの声に、シュナもぽつりと答える。
「……これからもずっと1人で寂しいと思うけど、オレを兄ちゃんだと思ってさ、もっと頼ってくれていいんだぜ」
そう言ってこちらを振り返る彼の姿は、確かに頼もしさを感じた。
ただ、兄というよりは……
「……弟じゃないんですか?」
「えっ」
リュウが立ち止まる。
「オレこれでも一応14だからな!? それにシュナより前からココにいるし……」
「えっ……」
シュナも思わず口元に手を添えて、その場で立ち止まる。時間が止まったような静寂がしばらく続いたあと、隠した口元から正直な言葉を紡いだ。
「……年下だと、思ってました……」
その言葉に、リュウは少し頬を引き攣らせながら問い直す。
「シュナ、いくつだっけ……?」
「……11です……」
「…………マジか……」
シュナの返答を聞いて、リュウは軽く崩れ落ちた。そんなにショックだったのかと思い、隠した口元が緩む。
「あ、笑っただろ今」
ジト目でこちらを見上げてきた。
「ごめんなさい……ふふ、なんだか可笑しくて」
まあ、これだけ小さいもんな。仕方ないよ。
恨めしそうにぼやきながら、もう一度立ち上がる。シュナの隣へ並ぶと、仕切り直すようにこちらを向いた。
「そんなわけで、これからはもっと頼ってくれよな!」
「ふふ。そうします」
雨を軽やかに弾きながら、2人は地下牢に戻っていった。
きっと明日は、仕事がいっぱいだ。